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育自ノート…子どもとともに育つ日々<人として・女性として・母として>
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毎朝、NHKラジオを聞きながら家事をする習慣は
ずっと続いている。
ニュースを聞く、時報の代わり、という実用的な目的の他に
全国のリスナーからのお便りを楽しみにしている。
・・・というか、今やこちらがメイン。
いろんな年代の、いろんな環境の、いろんな状況のみなさんからのお便りには
時に励まされ、時に涙し、そしていろんなことを考えさせてもらっている。
なにより、どのお便りもとてもあたたかい。

今、そのラジオで
「沖縄のみなさんと全国のリスナーをつなぐ」企画として
沖縄のみなさんからのお便り、
沖縄在住でなくても、沖縄への想いを綴ったお便りを募集していて
随時紹介されている。
(特集番組もあるようで、そちらでもまとめて紹介されることになっている。)

今朝、紹介されたお便りには
沖縄の方の強い願いが綴られていた。
辺野古への基地建設に反対しているのは
そういう危険な基地を本土の別の場所で引き受けてほしいからではない。
基地があることで、これまで沖縄は戦地に人を送り出してきた。
そういうつらさをもうなくしたいのだ、と。
そのためにどうすればいいのか、本土の人にも一緒に考えてほしい、と。

平和への願いが、危険な基地を「この国から」なくしたいという願いが
ひしひしと伝わってきた。
このことを考えるのは沖縄の人だけではないはずですよ、と。

政府は「平和」という言葉のもとに
真逆の発想で物事を進め続けている。
本当に、国民が、真剣に、ストップをかけなければ
いけない時に来ていると思う。
私は、基地問題を、沖縄の基地の問題というだけではなくて
国民みんながやるべきことを、上げるべき声を
沖縄のみなさんが代わってやってくれているように感じている。
沖縄の人々の強い願い、そこから湧き出る行動力に
尊敬の念を持っている。
そして、私にもそんな沖縄を応援する手段ができて
うれしく思っている。

「辺野古基金」。
沖縄のみなさんの想いと行動を後押しする基金だ。
もし、沖縄の今に関心を持ち
自分にも何かできないか、と思っている人がいれば
ぜひ、協力していただけたら、と思っている。
(「むかしあったづもな通信」最新記事にも紹介されています。)


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「昔あったづもな通信」の最新号を転載します。
ぜひお読みください。
近いうちに
ブログ先へのリンクを貼れるようにしたいと思っています。
それから
「昔あったづもな通信」を読んで
(特に若い方に)拡散したいと思ってくださるなら
ぜひ、お願いします。
一人一人の力は小さいものですが
一人一人の行動が流れを作っていくのだと信じています。

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第32号  ヴァイツゼッカー元ドイツ大統領の議会演説(要旨)
昔あったづもな通信 第32号
小澤俊夫

過去に目を閉ざす者は現在にも目を閉ざすことになる
 ヴァイツゼッカー元ドイツ大統領は、戦後四十年の節目に当たる一九八五年五月八日、当時の西ドイツ連邦議会で演説しました。その時、ぼくは大変感銘を受けて読んだ思い出があるのですが、「東京新聞」が二月四日にその演説要旨を掲載したので、「東京新聞」の了解を得てぼくの「昔あったづもな通信」32号として転載します。字句を一部修正しました。
 戦後五十年の節目にあたる一九九五年には、同氏は日本での記念講演で「過去を否定する人は過去を繰り返す危険を冒している」と訴え、日本人に強い感銘を与えたのでした。彼のこの考えがドイツ人の中で共有され、ドイツではナチスの強制収容所をいまだに保存・公開したり、ベルリンのど真ん中に「ホロコースト警告記念広場」を作ったり、ポーランドおよびフランスと共通の歴史教科書を編纂したりしているのです。
 私たちの国、日本にとっても大事な考え方だと思うし、日本の政治家たちにも、歴史と民族と平和についてこのような深い洞察を抱いてもらいたいと思います。特に、ヴァイツゼッカーが演説の最後のところで、「若い人たちにお願いしたい。他人への敵意や憎悪に駆り立てられてはならない。対立ではなく、互いに手をとり合って生きていくことを学んでほしい。自由を重んじよう。平和のために力を尽くそう。正義を自らの支えとしよう」と述べているところは感動的です。今おとなをやっている人間は人類に平和な未来を遺す責任があるのですから。
特に、「他人への敵意や憎悪に駆り立てられてはならない。対立ではなく、互いに手をとり合って生きていくことを学んでほしい」という言葉は、「イスラム国」に対して居丈高になっているアメリカと、それに追随する日本の現在の政治家に是非かみしめてもらいたい言葉です。日本は世界に誇る平和憲法をもち、戦後七十年間、戦争をしない国として、文化的、経済的、医学的に世界に貢献し、それなりの尊敬を受けてきた国なのですから。(小澤俊夫)


ヴァイツゼッカー、一九八五年五月八日、ドイツ連邦議会演説(要旨)
五月八日は記憶の日である。記憶とは、ある出来事を誠実かつ純粋に思い起こすことを意味する。
 われわれは戦争と暴力の支配で亡くなったすべての人の悲しみを、とりわけ強制収容所で殺された六百万人のユダヤ人を思い起こす。戦争に苦しんだすべての民族、命を落とした同胞たちを思い起こす。虐殺されたロマ(ジプシー 編集部注)や同性愛者、宗教的・政治的な信念のために死ななければならなかった人たちを思い起こす。ドイツ占領下の国々での抵抗運動の犠牲者を思い起こす。数えられないほどの死者の傍らで、悲しみの山がそびえ立っている。
 確かに、歴史の中で戦争と暴力に巻き込まれることから無縁の国などほとんどない。しかしユダヤ人の大量虐殺は歴史上、前例がないものだ。
 この犯罪を行ったのは少数の者だった。あまりにも多くの人が、起こっていたことを知ろうとしなかった。良心をまひさせ、自分には関わりがないとし、目をそらし、沈黙した。戦争が終わり、ホロコーストの筆舌に尽くせない真実が明らかになったとき、それについて全く何も知らなかったとか、うすうす気付いていただけだと主張した。
 ある民族全体に罪があるとか罪がないとかいうことはない。罪は集団的ではなく個人的なものだ。発覚する罪もあれば、ずっと隠されてしまう罪もある。あの時代を生きたそれぞれの人が、自分がどう巻き込まれていたかを今、静かに自問してほしい。
 ドイツ人だからというだけで、罪を負うわけではない。しかし先人は重い遺産を残した。罪があってもなくても、老いも若きも、われわれすべてが過去を引き受けなければならないということだ。問題は過去を克服することではない。後になって過去を変えたり、起こらなかったりすることはできない。過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも目を閉ざすことになる。非人間的な行為を記憶しようとしない者は、再び(非人間的な行為に)汚染される危険に陥りやすいのである。
 人間の一生、民族の運命という時間の中で、四十年の歳月は大きな役割を果たしている。この国には、新しい世代が政治的な責任を引き受けられるまでに成長してきた。かつて起きたことについて若者に責任はない。しかし、その後の歴史で生じたことに対しては責任がある。
 われわれ年長者は、過去を心に刻んで忘れないことがなぜ決定的に重要なのか、若者が理解できるよう手助けしなければならない。冷静かつ公平に歴史の真実に向き合えるよう、若者に力を貸したいと思う。
 人間は何をしかねないのか、われわれはみずからの歴史から学ぶ。だからわれわれはこれまでとは異なる、よりよい人間になったなどとうぬぼれてはならない。
 究極的な道徳の完成などあり得ない。われわれは人間が危険にさらされていることを学んだ。しかしその危険を繰り返し克服する力も備えている。
 ヒトラーは常に偏見と敵意、憎悪をかき立てるように努めていた。
 若い人たちにお願いしたい。他人への敵意や憎悪に駆り立てられてはならない。対立ではなく、互いに手を取り合って生きていくことを学んでほしい。自由を重んじよう。平和のために力を尽くそう。正義を自らの支えとしよう。(おわり)
(2015.2.6)
このブログにしてはめずらしい頻度の更新。
今は、思い立ったこと、考えたことを
とにかく行動に移したい、そうしなければ・・・。

ここでも紹介した「昔ばなし大学」の小澤俊夫先生が
「昔あったづもな通信」というブログを書いておられる。
先生は「昔ばなし大学」で(おそらく他の場所でも)
「子どもに昔ばなしを、なんてのは、日本が平和でなければやってられないこと。
この国のこと、平和のことを、しっかり考えてほしい」とおっしゃっていた。
私もそのとおりだと思っている。
転載、拡散大歓迎、とおっしゃっていて
もっと早くに紹介したかったのだが
タイミングが合わず、今になってしまった。
最新のブログをここに転載する。
ぜひ、他の記事も検索して読んでいただきたい。

私は、今、世間で、一様に言われている「自己責任論」は
思考停止のひとつだと考えている。
他人に対して「自己責任」を叫んでいれば
自分に引きつけて考える必要がないから。
怖くても、考えることをやめてはいけない。
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昔あったづもな通信 第31号
小澤俊夫

日本を「イスラム国」に敵として差し出した安倍首相 

 宮崎での再話研究会、徳之島での再話コース、奈良での講演「昔話の音楽的性質」、福井での学習会「昔話のモティーフと話型」と再話研究会とやっているうちに、湯川遥菜さんと後藤健二さんが「イスラム国」によって殺害されました。
 ぼくはこの「昔あったづもな通信」の第30号でも、小澤昔ばなし研究所発行の季刊誌「子どもと昔話」62号でも、集団的自衛権の発動をして、自衛隊をアメリカ軍に送り出したら、日本が過激ムスリムのテロの標的になるから危険だということを書いた。それがこんなにも早く現実になってしまったのだ。近現代の歴史から何も学ぼうとしない安倍首相は政治家として失格であると言わざるを得ない。
湯川さんと後藤さんが「イスラム国」に拘束されていることを政府は昨年から知っていたのに、安倍首相は1月17日にエジプトで、二億ドル支援について、「ISILの脅威を少しでも食い止めるためだ。人材開発、インフラ支援を含め、ISILと闘う各国に支援を約束する」と演説した。この演説について1月28日の参議院本会議で、「日本を元気にする会」代表の松田公太議員は英語版を読み上げて、「(日本語に)訳すとISILと闘う国の戦闘基盤を構築するための支援になってしまう。日本人が人質になっていると知っていた政府としては、配慮がなさすぎる」と指摘したという。
まさにそのとおりである。これでは「イスラム国」が日本をアメリカに従属した敵国と認識するのは極めて自然である。安倍首相は人質の交換問題が起きてから、あの支援は避難民などの援助だと弁解したが、手遅れだった。手遅れだっただけでなく、実は演説は本音を言ってしまったのだった。首相官邸には危機管理の「専門家」が多数いるだろうに、なんとお粗末なのだろう。というか、本当はアメリカ軍への間接的、直接的援助だから、どうしても本音が漏れてしまったのだろう。
テレビの国会中継を見ていたら、この点を追及されたとき安倍首相は、「テロリストがどうとるかなど考えて行動していたら、それこそテロリストの術にはまることになるのだ」という趣旨の答弁をしていた。外交的駆け引きなど考えもしない、単純で愚かな政治家であると、ぼくは改めて思った。
安倍首相はまた、テロ撲滅まで闘うと宣言している。そして、ほとんどのマスメディアも、「イスラム国」はじめ過激なムスリムだけがテロをしているように書き立てているが、アフガニスタン戦争以来のアメリカの暴虐な攻撃はテロではなかったのか。サダム・フセインは独裁者でけしからんというわけで、大量破壊兵器を所有しているという口実でイラク攻撃を仕掛けた。だが大量破壊兵器は見つからなかった。無実の攻撃だった。そのためにフセインばかりか無数の庶民が殺された。あれはテロと同罪ではないか。最近の無人攻撃機による爆撃もテロである。病院、学校が突然爆撃され、無数の病人、子どもが殺されている。この事実を追及しなくていいのか。大規模攻撃による殺人は正当で、個人による攻撃だけがテロなのか。そんなバカなことはない。一人だけ捕まえて殺したらテロで、多数をいっぺんに殺すのは正当な戦争なのか。そんなバカなことはない。
これは安倍首相には通じない話かもしれない。だが、日本のマスメディアに関わっている人たちにはお願いしたい。アメリカがやってきたことはテロと同じだということを、日本人に常に思い起こさせるような記事を繰り返し、繰り返し書いてもらいたい。「イスラム国」だけがテロをやっているわけではないことを。そもそも戦争を起こすこと自体、してはいけないことなのだということを。(2015.2.3)

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イスラム国による日本人人質事件は
悲しく、やりきれない結果になってしまった。
テロリストのやり方に、恐ろしさ、憤りを覚える。

しかし、実を言うと
テロは恐ろしい、テロに屈してはいけない、と
あたりまえのように繰り返されることに
私はずっと、違和感を抱いてきた。
テロはなぜ起きるのか、テロリストはなぜ生まれるのか、
ということを考えた時に
それは、ただ敵対すればいいだけの存在ではないのではないか、
そう思ったからである。

イスラム国の勢いが増し
アメリカ、その他の国が危機感を募らせ、攻撃を始めた。
「人道支援」と銘打っても、こちら側の立場で何らかの関わりをしたことが
今回の悲劇の始まりだったのだろうと、私は考えていた。

だから、この人質事件の結末を受け
政府が、世論が、対テロの考えを強め
そのための方策をあれこれ議論し始めたことに
私はかえって危機感を募らせている。

先ほど開いたyahooニュースの目次から
何気なく読んだ水島宏明氏のコラム。
私の気持ちを少し落ち着かせてくれた。
そのコラムに紹介されていた
今朝のNHK「あさイチ」で話されたという柳沢解説委員の言葉を
そのまま転載する。
考えるきっかけのひとつになるはず。
(水島氏のコラムもぜひ読んでいただきたいので
関心のある方は検索していただけたら、と思う。)

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「冒頭なんですけど、すみません。昨日から今日にかけて大きいニュースになってきた後藤健二さんなんですけど、

ちょっと、あえて、冒頭で、一言だけ・・・。

僕も後藤さんとはおつきあいがあったものですから、一番、いま、強く思っていることは、ニュースではテロ対策とか過激派対策とか、あるいは日本人をどうやって守ればいいか、が声高に議論され始めているんだけど、ここで一番、僕らが考えなきゃいけないことというのは、後藤健二さんが一体、何を伝えようとしていたのか、ということ。

戦争になったり、紛争が起きると弱い立場の人がそれに巻き込まれて、つらい思いをするということを、彼は一生懸命に伝えようとしていたんじゃないか。

それを考えることが、ある意味で言うと、こういった事件を今後、繰り返さないための糸口が見えるかもしれない・・・。

われわれ一人ひとりにできることというのはものすごい限界があるんですけど、この機会にそういうことを真剣に考えてみてもいいのでは・・・。

それが後藤さんが一番、望んでいることじゃないか。そう思ったものですから、冒頭なんですけど、ちょっとお話をさせてもらいました。」
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追記:私は、テロリストのやり方を擁護しているのではない。
   それは誤解しないでいただきたいと思う。
   それから。
   新聞を見ていると
   後藤さんの家族はじめ周辺のみなさんの言葉は
   悲痛の中にも、後藤さんの願いを想うもので
   頭が下がる思いがした。

雨や曇りのぐずついた天気が続いていましたが
 今日は久しぶりの快晴。
 日差しがまぶしいくらいです。
 雨や曇りも気持ちがしっとり落ち着くので嫌いではないですが
 お天気がいいと気分がぐっと持ち上がり
 やる気が出ます。

 ずっとやりたいと思いながらいろいろなことが重なってできなかったことを
 ある時、とてもいいタイミングでできたり。
 ふと手にしたものが、そのときの自分の心に響くものだったり。
 自分の思いや都合とは離れたところでタイミングよく与えられることに 
 驚いたり感嘆したりすることがよくあります。
 
 昨日、宮崎吾朗監督「ゲド戦記」をDVDで見ました。
 (我が家にはテレビはないですが、モニターとDVDを再生できるステレオがあります。
 これで時々おうちシアターを楽しみます。)
 劇場公開された時には賛否両論あったようですが
 私にはとても響くものがありました。
 ちなみに、私は「ゲド戦記」そのものはまだ読んでいません。
 なので、映画を純粋に一つの作品として楽しめたのだと思います。
 細かいことを言えば物足りなさもありますが
 伝えたいことがストレートに伝わってくる
 そして、とても大切なことをまっすぐにとらえて伝えようとしている
 いい映画だと思いました。

 別の映画を借りるつもりで行ったのに
 その作品が貸し出し中だったから
 「これも見ておこうかな」と軽い気持ちで手に取ったもの。
 まさにタイミングよく与えられたものだったようです。

 そして、おはなしの方の「ゲド戦記」。
 子どもの頃から第一巻はずっと本棚にあって
 映画で話題になったときに全巻揃えたにもかかわらず
 まだ全然読まずにいました。
 これも今、読みたくてうずうずしています。
 こちらも、今がそのタイミングなのかもしれません。

 




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HN:
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性別:
女性
自己紹介:
 1973年生まれ。
 2000年に結婚した夫・ムスメ(2005年生)・ムスコ(2007年生)・ジナン(2012年生)との5人暮らし。
 おいしい(?)ご飯を作ること、子どもと遊ぶこと、ウチの中を整えること、夫と語り合うこと、が暮らしの中心。
 2011年からは絵本や語りの勉強も始めました。いつか自分らしい「おはなし会」を作っていくことを夢見ています。
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